大阪府高等学校生物教育研究会   01/08/29
創立50周年記念講演録


大阪府高等学校生物教育研究会50周年記念講演録
「いったい何が生物教育なのだろうか」

滋賀県立大学長 日高 敏隆先生

1、近況

 ただいまご紹介いただきました日高と申します。ずっと動物行動学というのをやってきたわけですが、京大を5年ばかり前に定年で退官いたしまして、それから滋賀県立大学という新しい大学の準備をしてました。できたのは今から3年前で、それ以来ずっと学長ということになっています。早いものでもう最初の4回生が来年3月に卒業します。

 今ご紹介いただきましたようなこと(動物行動学についての研究・紹介等)をやってきたわけですが、その中でもいろんなことを感じました。ローレンツは大生物学者で、エソロジーという動物行動学を開いた人ですが、弟子がいないんです。いないわけじゃなく、たくさんいたんですが、全然育たないんです。片方で、ティンバーゲンという人がいまして、この人は自分の研究は割と細かいことをやってたんですが、今の世界中の動物行動学者はほとんどがティンバーゲンの弟子か薫陶を受けた人なんですね。「裸のサル」という本を書いたデズモンド・モリスだとか動物映画を作ったデビッド・アッテンボローだとか。どういうことなのか、と感じました。よくわかっていませんが。

 今、研究の方は、学生と一緒に研究してます。ああやれ、こうやれ、ということはこちらからはあまり言いません。学生が研究して出てきたことを、「おもろい、おもろい」「やれ、やれ」と言って追求させていくと、そのうち本当におもしろい研究になってくるので、そういう具合でやってきました。
いろんな動物の研究をしました。琵琶湖にイサザという魚がいるんですが、10年近く関わりました。最近はコウモリガというガをやってきました。

 今日は「いったい何が生物教育なのだろうか」というタイトルをつけましたが、長年生物学関係の教師をやってきて、「いったい生物教育って何なんだ」とどうしてもつい考えてしまうんです。中教審が「こころの教育が必要だ」と言ってますが、「こころ」というのもわけのわからないものですから、それをどうやって教育するのか、と非常に疑問で、大したことはできないんじゃないか、という気がしてます。

2、少年の頃のこと

 一昨年、新潟県の上越市で小学生がいじめのために自殺した、ということがありました。新潟県がそれを気にして教育のキャンペーンをやったんですが、僕が小学生の時、登校拒否児だったという話を聞きつけてきまして、それで講演をすることになったんです。京都の国際日本文化研究センター所長の河合隼雄先生がいろんな人と対談をして「あなたが子どもだったころ」という本を作っておられますが、その中に、僕のことも書かれているんです。10人くらいのいろんな分野で活躍している人の話をまとめられた本ですが、最終的な結論としては、「どういうわけだかわからないけれども、現在活躍している人というのはまともな教育を受けていない。」つまり学校に全然行っていない、そういうことがはっきりわかる。これはどういうことなんだろうか、と書かれています。

 僕自身も実際、小学校1・2年は肺炎だとか自家中毒だとか疫痢だとかでしょっちゅう休んでました。3年になってから学校へ行かなければいかんだろうという話になったのですが、体が弱いものだから体操ができない。跳び箱など飛べない。先生にぶん殴られてしょっちゅう「お前なんか死んじまえ」ばっかり言われてましたね。校長先生にもぶん殴られたり、3年生のときには学校へ行きますと毎日2〜3人の先生から「死んじまえ、死んじまえ」って言われてましたね。理由は非常に簡単でして、戦争中ですから、小学校というのは立派な兵隊を作る所で、勉強できる子供を作ってもしょうがないんですね。ですから勉強が好きな子なんかどうだってよろしい、体が丈夫じゃないとしょうがない。だからお前なんか早く死んじまえというんです。「天皇陛下はお前なんて欲しいなんて言ってない」と。どこから聞いてきたか知りませんが(笑)。

 毎日毎日「死んじまえ」と言われていると小学校3年生ですとおかしくなってくるんですね。暗い気分になってきて、ある日父親に、先生にそういうことを言われると話したんです。子供ですから期待がありまして、やっぱり父親だから「先生はそんなことを言うが、そうじゃない」と否定してくれると思っていた。そうしたら「そらそうだ、先生の言うとおりだ。お前なんか死んじまえ」。これはショックでしたね。それでしょうがないから母親にそういうことを言いましたら「そうよ、お父さんや先生の言うとおりよ!あんたなんか早く舌かんで死んだらいいじゃないの!」(笑)。

 僕は昆虫学をやりたいと思っていたんですが、「昆虫学なんかでメシが食えるか!そんなこと考えるなら勘当だ!」勘当の前に「死んじまえ」です。本当に自殺することを考えました、真面目に。4年生の時です、ずる休みをして家にいたら担任の先生がひょこっと来ました。で、ちょうどその時父親と母親がたまたまいたんですが、その先生が僕に向かって「お前は自殺することをいいと思うか悪いと思うか!」といきなり怒鳴ったんです。僕は度肝を抜かれて思わず「悪い」と言っちゃったんです。そうしたら「お前は自分が悪いと思っていることをなんでしようとするんだ!」と怒鳴ったんです。それで親は非常にびっくりしまして訳がわからない、という顔をしてるんですね。そこへ先生が両手をついて謝って、「大変申し訳ございません。とんでもないことを申しました。しかし、教師には親御さんにはわからない子供さんの気持ちがわかることもあるんです。今お宅のお子さんは真剣に自殺を考えています。だからお願いですから敏隆くんに昆虫学をやらせてください。」と言ったんです。僕はその先生に「昆虫学をやりたい」と言ったことはないんです、どうやってわかったか知りませんが。そ うしたら父親の方がびっくりしちゃって、「やらせます。やらせます。」と言ったんです。先生はすかさず、「ほら、ちゃんと畳に両手をついて、『ありがとうございます』と言いなさい。」で、ちゃんと手をついてそう言ったんです。そうしたら先生は「これでお父さんのお許しが出たから、お前は昆虫学をやりなさい。」それで、「申し訳ありませんが、お父さんお母さんお引き取りください。お子さんと2人で話し合いをしたい。」

 先生が言うには、「お許しが出たから昆虫学をやりなさい。だけど、昆虫学をやるからといって昆虫ばっかり見てたんではどうしようもないぞ。昆虫学をやるためには本を読まなくてはならない。国語が必要だろう。」こちらは死のうかどうしようかという話から昆虫学ができる、ということになったんですからまるで違うわけですよね。そう言われて国語がいるということなら、小学校4年ですから、「ああそうだ」と思いますよ。「カメムシという臭い虫がいるだろう。この虫の臭いはなんだあれは、ということになれば、理科がいる。」「そうですね」「この虫は世界中のどこに居るのか、となれば地理がいる。いつ頃から居るのか、歴史がいる。」(笑)何でもいいんですよね。何でも(勉強することが)必要なんだな、ということがよくわかりました。

 で、「本を読むと言ったって日本の本だけ読んでちゃだめだ。そのためにはちゃんと勉強して中学に入って、英語の勉強をしなくてはいけない。ちゃんと勉強して中学に入るな?」「はい、入ります。」で、これは今でも感心しているんですが、普通はそこまでいくと、自分の手元でちゃんと育てあげたいな、と思うものだと思うんです。ところが、「この学校はお前には向かない。学校をかわりなさい。」それで他の学校にかわって、その学校で勉強しました。そのおかげで僕は動物学をやるようになって、中学・高校もずっと動物学・昆虫学をやるために勉強して、すべてを動物学・昆虫学に集めてきたみたいな、英語を勉強するのも昆虫学やりたいためだし、いろいろ勉強するのがみんなそうなんです。そういうふうにして勉強してきました。そういう意味では「これは無駄なものだ」と思うことはなかった。それは大変よかった。で、今、こういうこと(動物行動学、滋賀県立大学学長等)をやってるわけですけど、あの時その先生がいなかったら僕はどうなっていただろうな、と思います。

3、子供にとっての「教育」とは?

 と、いうようなことが河合隼雄先生の「あなたが子どもだったころ」という対談集に載ってるんですよ。そしたらそれを新潟日報だか、信越放送だかがキャッチして滋賀県立大学までインタビューに来てテレビの番組の中で紹介されて再現ビデオまで放映されたんです。自分の再現ビデオを見る、というのもヘンな感じでしたね。

 それから何度も新潟に行くことになって、シンポジウムで話をしました。教育の問題を考えるということなんです。僕は少し考えてまして、「教育、教育」と先生方も文部省も学校も家庭でも、大人はさかんに言ってます。しかし、教育されるのは子供ですが、子供自体から見て教育されているつもりなのかどうかな、と考えてみると、そういうことについて議論したのは、僕は少なくとも見たことはない。ですから子供にとって「教育」とは何か、というテーマで話をしました。結論としては、子供は自分は教育されているというつもりは多分ないのではないか。大人の方は一生懸命教育してやっているつもりでいるけれども子供の方はそれは一種の遊びなのであって、その遊びが面白いか面白くないかでもってそれを勉強するかしないか決まる、というようなものじゃないか。子供が面白いと思ったら先生が教えなくっても一生懸命自分で勉強したりするんです。だから子供にとって「教育」というものは多分ないんじゃないか。そういうようなことを話したんです。

 学習とは子供にとっては遊びなので、遊びとして学習してしまっているんです。教育はされてないけれども学習はしている。そのことで「教育」と「学習」という言葉が出てきます。その2つはどう違うのか、を考えました。

4、学習とは何か?

 「学習」とは一体何だ、というと、これがまた問題なんですね。僕にとって動物行動の立場から見たときに「学習」というのは非常に大事な問題になるんです。昆虫などは卵からかえった時から何を食うかちゃんと本能でわかっていて、においか何かで食べる。大きくなって体の大きさがこのくらいになったら、ふんをしてホルモンが出て皮を脱いで蛹になる。蛹が何日かたつとちゃんと体ができあがって親になる。親になったら生まれて始めて飛ぶわけですが、羽が固まったらちゃんと飛ぶ。飛び方も学習も何もしないで飛ぶ。メスというのがちゃんとわかっていて学習なんかしません。ちゃんとメスをみつけて、ちゃんと子供を作っていく。ともかく「学習」などない。チョウチョの場合、オスがメスを見つけるときに自分のメスがどんなものであるかは全く学習してません。しかし、花については学習している。どこに花があるとか、どんな色の花がいいとか、それは学習してます。しかし学習するのは多分それだけです。メスがどこに卵を産むかというのも学習なんかしてません。ほとんどすべてがいわゆる本能というか遺伝的なもので決まっています。

 高校では少し前まで学習という単元はないけれどもそういうところがありましたね。そこでは次のような言い方がしてありました。原生動物など下等なものは行動はほとんど反射で、だんだん高等になってくると本能が増えて少し学習が混じってくる。高等動物になると学習がずっと入ってきて、本能は小さくなっていって、ほとんどが学習になる。人間は本能はなくてほとんどすべては学習である。つまり高等になるほど学習が増える、ということだから、人間は最も多く学習に頼っているから最も高等である。あるいは最も高等であるから最も多く学習をする。こういうふうになっていたものです。つまり学習をするということは「善」いいこと、高等であるということなんです。で、そういうふうに言われると、僕は虫をやっていましたので、何となく腹が立つんです。昆虫なんかはどうせ本能でしょうけど、人間は学習ですよ、とこう言われるとどうも何か腹が立つんです。(笑)

5、ウグイスの「ホーホケキョ」

 「学習」というのは一体何なんだ、というのが動物行動学では問題で、昔からそういう研究がたくさんありましたが、一番よく学習の研究がされたと思っているのが小鳥のさえずりの研究です。ご存知の通りウグイスは「ホーホケキョ」という声でさえずります。森の中で「ホーホケキョ」と鳴いていれば、「あ、ウグイスだ」と思いますし、「ウグイス」と聞いたら「ホーホケキョ」と思う。つまりウグイスという種の鳥の鳴き声の特徴は「ホーホケキョ」です。これは種の特徴なのですから、当然遺伝的に決まっているんだとみんな思ってました。象さんは鼻が長い。ウグイスは「ホーホケキョ」と鳴く。これは同じ次元の種の特徴なのだろうと皆思ってた。ところが、何人かの人が調べてみますと、ウグイスじゃありませんけど、ヨーロッパのウグイスに似た小鳥の卵を取ってきて隔離して、完全に遮音した部屋で何も聞かせずに育てますと、そのひなが大きくなったときにはさえずれません。地鳴きはするがさえずりはできない。するとしてもわけのわからないヘンな鳴き方しかできない。いろんな鳥でやってみてもみんなそうなんです。ほとんどの小鳥はそう。その小鳥の声たとえばコマドリの声は こうとか、なんとかの鳥はこうとか決まってますが、そういうような、種の特徴であると思われるようなさえずりの声も学習しないとできません。

  1930年代から40年代というのはそういうことがわかってきまして、世の中全く学習に傾いた時代です。つまり片方ではアメリカの心理学はすべて学習曲線を書かせて、すべて学習である、とやってました。片やソ連ではパブロフが条件反射学というものをやりまして、条件づけという学習である、とやっていました。多くの動物もそうやって学んで、人間も学習して益々利口になって、どんどん進化していく、こういうふうに思っていたんです。で、世の中全部が進歩発展の時代です。「学習」というのを言わないとその人は進歩的とは言われなかった。実はローレンツあたりは、その時代に、動物の行動というのは基本的には遺伝的に組み込まれた行動パターンがリリーサーによってポンと出てくるだけなんだ、と言ったんです。これはその当時から見たら完全な保守反動です。もともと遺伝的に組み込まれたものが、あるきっかけでポンと出るんだ。それが動物の行動の少なくとも基本的な姿だとこういう言い方をする。何の進歩も発展もないじゃないかということになってしまいます。そこでローレンツは非常に困りまして、保守反動と言われないために必死になって「学習も大事です」とか言ってい ます。

6、「学習せよ」と遺伝的にプログラムされている

 戦後になって機械などいろんなものが進歩して、学習の研究もまた始まりました。この中で面白いのは主にピーター・マーラーというアメリカ人と、そこで一緒に仕事をしてた日本人のマーク・小西(小西正一)あたりの研究で、特にピーター・マーラーのが面白い。どういうことかというと、鳥の卵あるいは若いひなを巣から持って来て遮音箱に入れる。まだ耳が聞こえない状態で遮音箱に入れる。全く音を与えないで飼ってると親になるけれども1年たって次の繁殖期が来てもさえずらない。それで、ひなのときに親鳥のさえずりをテープにとってスピーカーで聞かせてやると、しっかりそれを聞いて学習しているらしい。その時、自分のノドができてないので、歌ってみて、ということはできない。ただじーっと聞いているだけ。その時何かを記憶してしまうんでしょうね。そしていよいよノドができてきますと今度は歌ってみて、その歌ったものと記憶したものとモニターする。記憶に合わせていってちゃんと歌うようになります。少しずらせたようなやつを聞かせてやると、何かちょっとへんだなーというような顔をしながら聞いていて、それを覚えてしまうこともあります。本物のやつにテープを 切りかえると急にそちらに関心を持つようになります。どうしてだかわかるんですね。

 それじゃあ、全然違うものを聞かせたらどうだろうかという実験をしました。たとえばウグイスにカラスの声を学習させる。こんな実験した人はいないんですが例えて言えばそういうことです。卵のときとかまだ耳の聞こえないやつを置いておいて、耳が聞こえるようになった、という3日目ぐらいのときにいきなり最初にカラスの声をテープで聞かせてやるわけです。そうしたらどうするか。ひなは関心を持たない。全然学習しようとしない、聞こうともしない。それでこのひなは向学心もない(笑)しょうがないやつだ、と思ったが、まあ試しにと本物のウグイスの声を聞かせてやる。すると急に聞くようになります。で、カラスに切り替えるとやめてしまう。何でもないような気がしますが、考えるとすごく変ですね。つまりこのひなは今まで何にも聞いたことがないのに、いきなりウグイスの声を聞いたらこれは本物だ、ということがわかる。カラスを聞いたらこれは関係ない。でもウグイスを聞いたらパッとわかる。どこかで学習した、というチャンスはない。いきなりはじめからわかってる。そういうことになると、どうも学習というのは昔から言われている通り、遺伝か学習か、という問題では ないのかもしれない。

7、経験剥奪実験

 遺伝か学習か、という論争は20年くらいやってたんじゃないですかね。つまり、ある行動が遺伝によるものか、学習によるものか決めなくてはいけない時代というのが1930年代から40年代にかけてあった。ニワトリのひながエサをつつくのは学習かどうかについて考えてみますと、ローレンツは基本的なものはみな遺伝的に組み込まれている、ということを言ってるわけです。「卵からかえったニワトリのひなはかえって1時間もすると立ちます。そして親がココココと鳴くとついていく。ここにエサがあるよ、と言うと地面をつつく。これを生まれてはじめてやってる。今までそんなことしたことない。でもちゃんとつつける。というのはまさに生まれながらで、生得的なものであって、遺伝的に組み込まれたものである。学習ではない。」こういうふうにローレンツは言った。そうしたら、心理学の人は学習派ですから、「そんなことはない。ニワトリの卵を軟X線で見てみると、中にひなが入っている。中にひなができかかってると、こう丸くなってる。心臓を打つたびにひなの頭が前後に動いている。これだ、こうやって学習してるんだ。」(笑)

 それで経験剥奪実験というのが流行り出しました。例えばイモリですが、イモリのおたまじゃくしはカエルとよく似たおたまじゃくしです。手足がありません。水の中を泳いでいます。まもなく変態をしますと、4つ足が生えてきます。イモリの親に似たような形になります。学習派の人達は、イモリがうまく泳げるのは多分おたまじゃくしのときに泳ぐという学習をしていたからだろう、というんです。じゃあどうしたら確かめられるかというと、泳ぐという経験ができないようにするんです。水はあるけれど、脱脂綿をぎっしりひいて泳げないようにしておたまじゃくしを育てました。3ヶ月もしますと変態して親のかっこうになります。それを水の中にチャポンといれてやると、グーッと泳ぐ。経験も学習もなしにちゃんと泳げるからイモリの大人がちゃんと泳ぐのは学習は必要じゃない、という結論になる。考えたらつまらない研究ですね(笑)。もっとつまらない研究した人がいます。人間の赤ん坊は1歳から1歳半になると階段を登る。あれには学習は必要かどうかということを研究した人がいます。一卵性双生児を何組か集めてきて、分けて、片方は段差の何もないフラットな部屋の中で飼った (爆笑)。飼ったじゃなくて育てた。もう一人の方は箱とか台とかあって、登ろうと思えば登る経験ができるようにした。1年半たったところで2人を階段の前に連れていくと、両方とも階段を登った(笑)。

 そんな実験がどんどんあって、経験剥奪実験は非常に流行りました。ところが、あまり無茶苦茶にそれをやってもしょうがないということが出てきました。あるアメリカの行動学者の実験で、ネコの性行動にはどれくらい学習が必要かというのを調べた。とにかくまずネコというものを見せてはいけない。生まれたすぐに完全に隔離して人間が飼って育てた。大人になったそのオスネコの前にメスネコを連れて来て見せた、するとこのオスネコはその、生まれて初めて見るネコというのを見たときに、それが自分と同じネコであり、しかもメスネコであって、自分の性行動の対象であるとちゃんとわかった。ちゃんと近寄っていってしかるべき行動を始めた。そういうことを何例も見たので論文としては「オスネコの性行動の発達に学習は必要ない」。ちゃんと遺伝的にプログラムされていて大人になればちゃんとできる。そうしたらまたうるさい心理学の人が、「そんなことはない。このオスネコは子供のときから隔離されていたけれども、明るい所にいたのだから、人間を見ているし、エサにネズミをやったそうだが、いろんなものを見たり臭いをかいだりしている。そういうものとの比較の上においてネ コは学習したんだ。」というんです。そりゃそうかもしれん。そのためには一切なにも見せないで育てないといけないんだ。しょうがないからその研究者はやったんです。かわいそうにオスネコが生まれたらすぐに完全な暗黒の中に入れて4ヶ月5ヶ月育てた。そうやって10匹ぐらい育てた。その10匹ぐらいのオスネコにメスネコを見せると、そのオスネコは全くメスネコに反応しない。心理学者はその話を聞いて「それ見ろ!」。

 動物行動学者は調べました。とにかく10匹全部が反応しない。解剖したようです。わかったことは、こうやって育てたオスネコはどのオスネコも目に網膜がなかった。ある系統じゃなくランダムに取ってきているのに、みんな網膜がない、というのはおかしいというのでもう一度調べてみたら、ネコは、人間もそうだそうですが、胎児のときに網膜ができてきて、かなりのところまでできてくるが、生まれると光に会ってその刺激でさらに発達して網膜が出来上がってくる。ところがそこで何時間以上か暗黒になってしまうと一度できかかった網膜がそのまま退化してしまってなくなってしまう、ということがわかった。結局このネコはかわいそうに生まれて4ヶ月も暗黒の中に置かれて網膜が完全に退化してなくなってしまったんです。網膜がないとものが見えない。ネコというのはイヌと違って、臭いでなく目で相手を見つける。網膜がないと見えないのでメスネコも見えない。見えないと反応しない。ということになった。結局この人の研究は一体何だったんだ。「オスネコの性行動に対する学習の効果」という論文のはずだったのが「ネコの網膜発達に対する暗黒の影響」(笑)。それがあってから経 験剥奪実験はやたらにやってもしょうがない。つまり何が起こるかわからない。それで経験剥奪実験はあまりやらなくなりました。

8、学習すべき内容も遺伝的にプログラムされている

 ウグイスの場合、生まれて初めてカラスの声を聞かせても全然興味を持たない。しかし本物のウグイスの声を聞かせてやるとちゃんと興味を持つ。聞いてどこかに記憶して、そのようにした鳥はちゃんと大人になってウグイスの声でさえずる。そうするとこれはどういうことなんだろうか、と皆さんいろいろ考えました。どうも学習というのは、遺伝か学習か、というのではないんじゃないかという考えも出てきました。学習をしている鳥もいるけれども学習しなくていい鳥もいる。ニワトリの「コケコッコー」は学習の必要はない。全く隔離してオンドリのひなを育てても大人になってくると「コケコッコー」と鳴きます。これは学習がいらない。しかしある鳥の場合には学習しないといけない。これは一つの遺伝的なプログラムじゃないか。ウグイスとかそういう鳴禽類の場合には「さえずりを学習しなさい」ということが遺伝的に決まっているんではないか。ニワトリの場合には「別に学習の必要はないよ、大人になったらできるよ」というように決まっているんではないかというんです。「学習しなさい」といっている方はいつするか、というのも決まっている。それは卵からかえった後、1ヶ月ぐら いの間にしなさい、となっていて、それ以後になると学習できなくなる。どうやって学習するかというと、親の声を聞いて覚えなさい。遺伝的にそういう指示があります。どういうのがお手本か、というとこういうのがお手本だ、という指示が遺伝的にあるんじゃないかとしか思えない。そうなってくると、遺伝と学習の関係というのは今までのものとは全然違ってきます。つまり学習というのも遺伝的なプログラムの一環ということになります。遺伝的プログラムによって「学習せよ」と決まっている場合だけ学習する。そのときには、いつごろ、どうやって、学習せよ、というのも決まっているわけです。「しなくてよい」というときには学習しない。

 学習の例にはいろいろありますが、例えば、キンカチョウという鳥とジュウシマツという鳥がいます。これは種類がわりと近いが、声が違う。種類が近いものだから子供を取り替えることができるんです。ジュウシマツの卵をとって、キンカチョウに育てさせることもできるし、キンカチョウの卵を取ってジュウシマツに育てさせることもできます。そうすると、キンカチョウに育てられたジュウシマツは大人になるとさえずります。育てられるときに親の声を聞いて学習してるんです。ところが、さえずるけれども、キンカチョウの歌ではないんです。ジュウシマツの歌でもない。何とも言えない変な歌です。もう一方も、ジュウシマツでない、キンカチョウでない、変な歌を歌います。いちおう学習はしているらしくてさえずりはする。一体どういう歌なんだろうと調べてみたら、キンカチョウに育てられたジュウシマツのひなは、キンカチョウの歌の中にもジュウシマツの歌の成分みたいなものがあるますが、それを拾っていて、そこだけ歌うんです。それは、ジュウシマツ本来の歌ではないし、キンカチョウの歌でもない。ジュウシマツに預けられたキンカチョウのひなはジュウシマツの歌の中からキ ンカチョウの歌にある所だけ拾って学習する。遺伝的には、こういうものを覚えるんだよ、というのはあるんでしょうね。ところが聞いているとお手本が部分的にしかないのでそこだけ拾う。そういうふうになる場合もありますし、他の場合もあります。コンピュータでちょっと継ぎ替えをして、歌の順番を替えてやる。「ホーホケキョ」というのを「ホケキョ、ホー」というように作り替えてやると、元に戻してちゃんと覚えます。変なふうに組み替えたりちょっと変えたりすると、ひなの方はまともなものに仕立て上げてしまいます。あまりひどいとダメですが、僕はそういうことを聞いて教師として非常に安心しました。教師が多少間違ったことを言っても大丈夫だ(笑)。学生・生徒はちゃんと覚えるということになります。

9、子供が「学習」する対象

 そうすると次に出てくるのは、何でもかんでも教えることはできるのか、という問題です。特に大人になって、就職のためにはこういうことはできなければいかん、ということになれば学習しますけど、子供の頃で、特に小学校ぐらいのときには、そんなに何でもかんでも学習させようとしてもできないのではないか。中学生以降になって英語を教えても全然覚えようとしない子もたくさんいます。けれども赤ん坊というのはまわりでしゃべっている言葉に対してものすごい関心を持っていて、一生懸命になって、すごい好奇心ですね。多分遺伝的なプログラムなんでしょう。僕のいとこの子供などは、「ジンナマ、ジンナマ」と言う。テレビでビールの「純生」をやってて、それを聞いてしまったらしい(笑)。そういうものだけちゃんと聞いて覚えている。中学校で英語ができない生徒は、先生が言った単語を一生懸命取り込んでいるとは思えなません。しかし、小さい赤ん坊はみんなそれをやっている。だからみんなしゃべれる。とにかく言葉とか単語とか、そういうものはものすごい関心を持って取り込んでいくようにプログラムされています。これは子供自身はおもしろいんでしょう、多分。覚えて しゃべってみたら通じた、というのは子供にとってはすごく面白いと思う。で、それはやっぱりある種の遊びなんです。それで将来僕は国語の単位が取れるなんて赤ん坊は考えてない(笑)。これは面白い、親と口がきけるというのは。

 知り合いのかつて都立大学の先生をしていた人が、この間すごく悩んでいました。5つぐらいの子供が、やたらとウソをつく。すごく本当らしいウソをつく。こんなに子供の頃からウソばっかりついていたらどうしたらいいだろう。こんな子供が大人になったらどうしたらいいんだろうね、と言ったら、「政治家にしたらいいんじゃないですか」(笑)。しばらく悩んでらした。そのうち子供はパタッとウソをつくのをやめてしまった。いろいろな人に聞いてみたら、発達心理の人など、それは一種の遊びだと言います。大人は、何も現実にはないのに、論理だけで、こうこうこうだったよ、というと、「えーっ!」と驚くことに気がつく。これは子供にしたら面白い。よし、やってやろうというのでやるわけ。これはうそつき遊びなんです。しばらくすると子供はこの遊びに飽きてしまう。うそつき遊びをやめる。そのときに、論理をちょっとこういうふうにやれば現実には何もなくても話しだけでいける、言葉というのはそういうものなんだとということを学習してしまいます。

10、学習のプログラムが種によって異なる理由

 「学習」によって遺伝的プログラムが具体化されます。非常にたくさん学習する動物と、しない動物があります。たくさん学習するものは高等だ、ということになっていますが、いろんな動物で見てみると必ずしもそうかんたんには言えません。

 例えば、鳥が飛ぶというのはものすごく大事なこと。ツルみたいに地上に巣を作る鳥の場合には、ひながだんだん大きくなってくると、翼も大きくなってくる。ある程度大きくなってくると、飛んでみる。ちょっと飛んでパタッと落ちて、しばらくするとまた飛んで。毎日毎日やってるうちにだんだん距離が伸びてそのうちにずっと飛べるようになる。こうやってツルは飛ぶということを学習していく。子供のツルは飛ぶ遊びが楽しい。ちょっとやって飛べたぞ。学習しなければ飛行の単位が取れないぞ、というんじゃない。ところが、高い木の幹のうろに巣を作るキツツキなどは、絶対にこういうことはやらない。飛べるようになって出て来て翼をバタバタやっても飛ばない。いよいよ飛ぶときになったら思い切ってある程度バッと飛ぶと15mぐらい飛ぶ。それまで、飛ぶときは羽をどう動かすべきか、などと全然学習してないはずだが、飛び出したらバッと飛ぶ。そういうプログラム。50cmずつ飛んでみなさいなんていうのだったら10mぐらい高い木のうろから顔出して、そこから50cm飛んで落っこちたら、それで一生終りです(笑)。そんなプログラムは組まれてません。

 ニワトリの場合、オンドリの「コケコッコー」というのは学習の必要はありません。なぜ「学習せよ」というプログラムがなくて、黙っていても出てくるのか。それは、ニワトリ・キジ・クジャクの仲間は、オンドリとメンドリがつがって受精すると、メンドリはオスから離れていく。もうオスなどいらない。勝手にひとりで安全な所を捜し、そこに自分で巣を作って、卵を産んで、ひとりで暖めて、かえして、ひなを連れて歩いてひとりで育てる。オンドリはどこへいったかなんて全然わからない。ひなの中にはオスのひなもいる。当然学習しなくてはいけないはずなんだが、そのときにオンドリのコケコッコーを聞いて学習しなさい、というプログラムがもし組まれていたらひなにとっては悲劇。オンドリはどこにいるかわからないですから。捜してあげなくてはいけない。捜してみつからなかったら、そのひなはコケコッコーと鳴けない。鳴けないとメスが来ないから、そのひなは一生メスなしで過ごすことになる。そういうふうにはプログラムは組まれてない。大人になったら自然と歌えます。

11、人間の学習のプログラム

 では、人間という動物はどういうプログラムが組まれているのでしょうか。人間の場合には相当いろんなことを学習しなければならないみたいです。入学式のときに学長訓示というのがあるのでやったんですが、大学というのは石器時代と同じだという話をした。人間は武器も何もない動物ですから、一人では生きていけない。草原で一人だと、エサもつかまえられないし、敵が来たらやられてしまう。そこで100人とか200人とか集団になって、集団でエサを取るとか、集団で自分達を守るとか、いうことをしてかろうじて生きてきた動物じゃないかという気がします。チンパンジー・ゴリラとは近いが少し違う。集団を作るにもチンパンジーは20匹ぐらい、ゴリラは家族単位。同じ類人猿でもオランウータンは全く単独。100人、200人という集団の中で生まれた人間は生まれたときからいろんな人を見ます。自分と同じ世代の子供もいるし、自分より少し大きい兄さん姉さんもいるし、大人の男・女、自分の父親・母親、父母とは違うキャラクターの大人など、いろいろいる。大人は大人どうしで何かコミュニケーションをやり取りしているし、大人の女どうしも何かやりとりしている。ちょっと若い兄さん どうしも何かやりとりしている。それを子供はすごい興味を持って見るよう多分プログラム組まれている。「僕ももう少ししたらあの兄さんぐらいになるのかな。ああいうときはああしてるな、でもああいうのはイヤだな、あれはやめよう。こっちの人はあっちとは違ったことをやってる。この人はなかなかカッコいい。自分もああいう場面になったらああすることにしよう。」という具合に学習してるんじゃないか。別に学校なんてなくても子供達が面白がって学習してしまう。そういうふうに、いろんなことを学習するチャンスがあって、それをいろいろと学習するようプログラムされているのが人間じゃないか、と思います。

 ところが今はどういう状態かというと、団地なんてものができてしまって、ドアを閉めて入ってしまうと、中には大人の男としては父がいて、大人の女として母がいて、自分が将来こうなるという兄さん姉さんがいればよいが、場合によっては一人っ子。3人だけ。父親というのも典型的な人間ではない。どんな父親でもどこかおかしいわけ。また他のおかしさを持っている他の男がいる、ということを見ることがない。母親だって相当おかしいわけですからね。他にもおかしい大人の女がいるが、そういうのは見るチャンスがない。学校へ行くと、同い年の子ばかりで兄さん姉さんとはあまりつきあいがない。先生方はいるけれども、別格の存在で、付き合ってやるというものではなくて、「何々しろ」「はい」という関係で、学べない。そうすると子供たちは一体何を学べるのか。現在いろんな意味で子供たちがおかしいというのはそういうことに関係あるのではないかと思います。本来の動物としての人間は、まわりにいっぱいの人がいて、そいつらのやることを興味持って、学習していきなさい、というプログラムが組まれていた動物じゃないかと思う。それで今までずっとやってきたのに、今になっ てそれはバチッと切れてしまった。それは非常に大きな問題なんだな、という気がしています。いまさら核家族はやめましょう、というわけにはいかないし、学校も1年生から複合学級にしてしまえ、というわけにはいかないし、どうしたらいいんでしょうね。

 そういう意味では4年制大学というのは1回生から4回生まで18歳から22歳まであの年頃ではずいぶん子供と大人の違いがあります。大学院がもうじきできますので、ドクターができたら9年の差ができる。40歳と50歳の10年とか、50歳と60歳の10年というのは大したものではないが、18歳から27歳の9年というのは差はすごく大きい。やっぱりお互いに見ている。途中まで来たら、オレも昔はあんなことやったな、いうことを見ることもある。先生方も、実験助手など大学出たばかりの若い先生もいるし、官有物払い下げで来た(定年で来た)先生もいます。63歳とか65歳とか。キャラクターもいろいろで、怖い先生もいるし、いいかげんな人もいる。事務官も今年公務員試験受けて入った人からそろそろ定年だという人までいます。大学の中では対等に口がきける。それが非常にありがたい。対等に口をきいてやっていくとなると、石器時代と同じ状況になる(笑)。大学の持っている非常に大きな意味というのはその石器時代性にあるという変なことが言えるのではないかと思います。石器時代というとバカにするな、と言われそうですが、そうじゃなく、非常に大事な時代だったんじゃないか。現在はそ れが壊れてしまっているんですが、現在でも石器時代のような状況があれば、そこで何か多くのことを学んでいけるんじゃないかと思います。たとえば部活では多少とも先輩がいて、縦の関係もあります。人間というのは、学んでいくことが、本人がすごく楽しいし、うれしいように遺伝的にプログラムされているようです。遺伝的プログラムというのはそもそも何のためにできたかというと、僕なら僕の中にいる遺伝子というのは、たくさん増えていきたいと思っていて、なるべくちゃんとした人間になって、なるべく多く女を手に入れて、たくさん子供を産ませて欲しいわけで、そのためにはプログラムはちゃんとした人間になるようにできているはずなんです。そのプログラムがうまく具体化されるようにする条件を作ることが大事だというふうに思います。今の団地とかはそれに反した方向に向いているような気がします。

12、生物教育は具体的であるべき

 生物教育とは何だという話ですが、生物に関しても一部同じことで、人間は昔から周りのいろんなものに興味や好奇心を持つようにできている。その好奇心がかきたてられるようにすればいいと思います。好奇心とは本来、具体的なものに対して出てくるのだから、具体的なものを出していくことが必要なのかな、と思います。いつもそれで思うのは、京大あたりの大学院生で、メンデルの法則に感銘している学生というのが必ずいて、「メンデルの法則は非常に美しい。ああいうことを将来勉強してみたい」と言います。ところがその連中はその後大成してないですね。ああいう具体的なものでなく、学問体系の美しさに惚れ込んでしまった人は、結局それ以上何もできません。メンデルの遺伝の法則というのはきれいだが、それをもって世の中の事象にあてはまめることはできません。会社の中のいろんなことに対してメンデルの遺伝の法則では、とはいきません。そういうのよりは、もっと具体的に、「このマメとこのマメでこういうのができちゃった。どうしてなんだろう」という方がよほど健全なのじゃないかという気がします。それで具体性というのが非常に大事なんだな、と思います。

 今の生物の教科書なんかを見てると、具体的なものがあまりなくて、一般論ばかり書いてありますが、あれじゃあ面白くないんじゃないかなという気がしてしょうがないです。僕が中学になったときに教育課程が変わって、物象と生物というのが入ってきました。物象というのは化学と物理なんです。生物は生物です。これの一番最初のところが、「生物は呼吸をしている」、という所から始まるんです。そこで実験があって、キンギョをフラスコの中に入れて、何回エラを動かすか数えます。数えてみて、記録を取る。平均何回なのか。次に、少し暖める。水温を上げる。上げるとどうなるか。早くなる。早くなるとそれは酸素が必要になるからだ。もっと上げるとどうなるか。だんだん上げていく。あまり上げすぎると死ぬとは書いてなかった(笑)。浮いてしまった(笑)。グラフを書くと、すごく科学的な研究に見えます。ですが、本当に生物学的な意味は何なのか。暖めたらエラが早くなった。なぜそうなるか、という説明も何もありません。それが中学1年のときで、これをやって生物が完全に嫌いになりました。しばらく生物の授業に出ませんでした。それがその当時「科学する心」と盛んに宣 伝された指導要領でした。

 タイトルに掲げたのとは食い違いましたが、中身としては通じている話を申し上げたと思います。


(※この文章は大阪府高等学校生物教育研究会50周年記念式典にて日高敏隆先生が記念講演されたものを生物研究会にて文章化したものです。この文章に関しましては無断転載を禁じます。

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