20年間のご支援に感謝をこめて


■ 20年間のご支援に感謝をこめて
~自然史センターと博物館と私の関わり~

認定特定非営利活動法人「大阪自然史センター」(以下、センター)は9月14日に設立20周年を迎えることになりました。この間、センターを支えてくださったたくさんの皆さんへお礼申しあげるとともに、今後も変わらぬご支援をお願いしたく、私と博物館、センターのかかわりの歴史のなかから、センターの値打ちをお話ししたいと思います。

10歳の年、父親に連れられて
1959年、10歳の年、自然史博物館の前身、大阪市立自然科学博物館の普及行事に父親に連れられて参加したのがきっかけで、現在の博物館友の会の前身、大阪自然科学研究会に入会し、今日まで60年以上、途切れることなく会員を続けています。その間、継続的に活動に参加していたわけではありませんが、毎月届くNatue Studyには目を通し、さまざまな知識を吸収してきました。

友の会とのかかわりの第二段階は1980年春の半日観察会、中之島の阪大病院構内でのタンポポ調査と、今も続く夏合宿です。これをきっかけに翌年から友の会のお手伝いをするようになりました。40歳までの10年間はほぼ毎年、合宿の世話役をつとめましたが、2009年末、還暦を機に友の会評議員を引退しました。この30年、いろんな行事、合宿や下見を通して得た経験は、私にとってなにものにも代えがたいものでした。単にお世話をするだけでは続かなかったと思います。さまざまな自然に触れるだけでなく、学芸員や友の会会員のみなさんとの交流を通して、知識を得るだけでなく、さまざまな経験ができたことは、人生の宝です。

順風満帆の15年と危機
2001年、活動の幅が広がりつつあった友の会を母体とし、博物館のサポートNPOとしての性格を併せ持つセンターが設立、同時に友の会の代表として理事になりました。2014年にはより社会的責任が大きい認定NPO法人になりましたが、設立から15年までは大きな波風にもあわずに事業の幅を広げてこられたように思います。センターの母体となる友の会の運営、ミュージアムサービスの拡充、子どもワークショップの企画運営、2003年からの大阪自然史フェスティバルの開催、あくあぴあ芥川の指定管理、震災で被災した東北の博物館支援などなど、さまざまな活動を展開できました。

ところが2015年1月、私が三代目理事長に就任以降はさまざまな難題に見舞われることになりました。最大の危機が昨年1月以来のコロナ禍であることは申すまでもありません。昨春、次のようなメッセージをお届けしたところ、皆さま方の温かいご支援をいただき、一息つくことができました。
新型コロナウイルス感染拡大に関する理事長からのメッセージ

ところが今年になって変異株による感染再拡大で博物館がまた長期休館、特別展の会期がわずか1週間に抑えられ、対面行事の中止が続くなど、危機的状況は現在のところ、改善の見通しが立ちません。技術の進歩に伴い、講演会などはインターネットを利用してオンラインで開催できるようになりましたが、自然とのふれあいは生身でするからこそ身につくものです。五感を駆使して知ることができる息づかい、手ざわり、香りなどはバーチャル技術が進歩しても代替することはできません。

子どものころから自然とのふれあいを通して身についた感覚こそ、今の私のベースです。そうしたきっかけの一つに博物館があったことは疑いようがなく、次世代を担う若い人たちにそうした経験を積んでもらいたい、それが今の私の願いです。

一生消えない自然との触れ合いを
近年、自然とふれあう機会は減りつつあります。子どものころの経験は途中でブランクがあっても、消えることなく、容易に復活しますが、経験できなければどうしようもありません。センターは博物館と協働して自然とふれあい、理解を深めてもらうためのさまざまな事業を継続してきました。これこそがセンターの値打ちです。

ところがこの1年半あまり、ただでさえ自然とふれあう機会が減っているのに、コロナが追い打ちをかけられています。将来、自然体験なしに子ども時代を過ごした方たちばかりになることを、とても心配しています。

感染防止対策上、生身のコミュニケーションを避けることが有効とされるなか、自然に親しむ第一歩としての子どもワークショップは大きな制約を受けています。緊急事態宣言下の友の会行事もすべて中止になりました。ミュージアムショップは開いていますが、来館者が少ないので、お客さまは少数です。私たちが集団免疫を獲得し、従来の生活をとりもどすまで、どれだけの時間がかかるかわかりませんが、その日に備え、センターのスタッフは心身の健康維持に留意しながら、明るい未来を信じて努力を続けています。今後ともご支援いただきますよう、よろしくお願いいたします。

おまけ
左下の画像は2006年7月の友の会ハイキングで、箕面をご案内した折のものです。私の話を「うーん、ホンマかいな」という表情で聞かれているTさん、こんなふれあいを早くとりもどしたいものです。

右下は、博物館に来た10歳頃の私。
 

2021年9月14日
認定特定非営利活動法人 大阪自然史センター
理事長 





■ 理事からのメッセージ


私の信条 
理事 白木 江都子


成人してからの私を育ててくれたのは、紛れもなく自然史博物館友の会でした。1982年、友の会夏合宿は兵庫県中央部の雪彦山、家族で初めて合宿に参加し、沢渡り、鎖にしがみついての岩登り、夕刻仕掛けたトラップを翌朝見に行くなど、何もかもが新鮮で、来年も行こうとその場で決めました。翌年の夏合宿は友ケ島でしたが、私は友の会評議員になっていて合宿を担当し、夫と子どもとは別行動、これが私の人生の自立の始まりだったのです。回を重ねるうちに、私1人で参加する機会も増え、「仕切り屋おばさん」へと成長、「合宿の女王」またの名を「合宿の鬼」と呼ばれるようになりました。春の有明海合宿では、すでに終電を過ぎているからと、JRの線路上を大勢で歩く非日常を楽しみましたが、突然のまさかの警笛。叫びながら各々線路敷きを転がり下り、みんな事なきを得ました。

I学芸員と担当した9月の月例ハイキングは、奥水間から永楽ダム、熊取に抜けるコースでした。初参加のご婦人が雨山登山中に足が攣って一歩も歩けなくなり、参加者で交替のオンブ作戦も限界、熊取の消防署に助けを求めました。担架で運んでいただき、病院では「疲れと脱水症状だけだから、点滴後は帰ってよい」と言われ、I学芸員と焼き鳥チェーン店で祝杯を挙げました。

2003年の滋賀県朽木村合宿下見時、前後離れてしまって道を誤り、気付いたときには、人の声も気配もなく、携帯電話も通じず、山の中でひとりぼっちでした。夕闇迫る頃、O学芸員に助けられ、騒ぎにならずにすみましたが、さすがに引き際を考えるようになりました。

その少し前からNPO法人化の検討が始まり、世の中を先取りする中心メンバーに迷いはなく、時流に乗れていない私も、理事として仲間に入れていただきました。

今は、「お主できるな」揃いのセンター女性職員に、お菓子の差し入れとエールを送る役割です。彼女たちの奮闘で博物館友の会の守備範囲も広がり、センターを応援してくださる方々も増え、生きもの大好き、自然大好き人間の輪は広がって行きます。

生きもの、自然大好き人間が増えるほどに世の中はよくなる、というのが、ゆるがぬ私の信条です。



自然史センターと博物館と私の関わり 
副理事長 道盛 正樹


博物館と友の会にかかわらせてもらって50年、自然史センターとは2001年発足時からなのでちょうど20年となり、さまざまの方々との出会いが私の財産となっています。

1970年代、大学の生物部の顧問であった八木沼健夫教授、林匡夫非常勤講師は大阪市立自然科学博物館の創成期を担った方々で、西川喜朗元友の会会長は当時講師として部活に深くかかわっていただいていました。植物に興味をもっていたことから、高等部の生物教師であった児玉務先生(当時友の会評議員)を紹介していただきました。

先生は研究成果(大阪市立自然科学博物館収蔵目録 近畿地方の苔類Ⅰ,Ⅱ,1971-1972)をまとめられている最中で、「まだあちこちのコケを集めているので取ってきてほしい」と虚仮の私をコケに誘っていただき、今日まで自然とのかかわりを続けることとなりました。

先生方は、それぞれの専門分野の普及には特に心血を注がれ、八木沼先生はクモ学会の幹事を長く続けられ会長職にも就かれました。林先生は、カミキリムシ愛好者のサロンにかかわられていました。児玉先生は大阪市内の中学校教師であったころには、博物館の学芸員も兼任され、また、しだとこけ談話会の庶務を長く引き受けられ同好の士の輪の広がりに尽力されていました。
学生時代の恩師が博物館に深くかかわられ、その後友の会に入会して、自然史博物館を介して知り合えた方々からの、生きものに対する敬虔な向き合い方に接しられたことが大きな宝物となっていますが、活かしきれていない歯がゆさもあります。

博物館は、自然を介して人の輪の広がりが得られる何物にも代えがたい場所でもあると思っています。

写真は、博物館の蘚類標本のベースを作られた中嶋徳一郎先生との「しだとこけ談話会観察会」での2ショットです。1969年11月6日京都金毘羅山にて<児玉務写真>
(2021年10月15日掲載)





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